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支えられています
2011年11月28日

人気の着物雑誌『七緒』の編集長が気仙沼に来てくださいました。
それはそれは着物で商っている私にとって名誉なことですが、私はこのことを自慢したくてこのページを書こうと思ったわけではありません、ちょっと聞いてください。
忘れもしない3月11日の翌週は七緒さんの取材の予定で上京するはずでした。
5月21日に発売予定の『買いもの七緒』にも商品を掲載して下さることになっていました。
その矢先のあの震災でした。
訳わからずの数日後、私は取材の約束を思い出しました。翌日、ケータイの電波の届くところまで車で出て大事なところへ電話しようと、友人と共に車を出しました。電池式の充電器を持ち、ガソリンが手に入らない状況がいつまで続くかわらない中、電話のために貴重なガソリンを使う最初で最後の1回でした。
結局1時間ほど走ったところで電波が通じ、かけた電話の1本が七緒編集室でした。
電話口に出た編集者のNさんに…

長くなりますが
20011年6月8日
パソコンの前でブログを書き込むのは実に3か月ぶりです。
震災より携帯が通じるようになった約1か月後に、携帯からmixiに書き込みを1,2度しただけでした。
ちっとも書き込みをしていなかったのでメルマガで書いた内容と重複するところもありますが、震災から今日までの日々を少しお話したいと思います。
3月11日の震災で当店は津波を被り、実店舗と在庫、データのほとんどを失いました。これが震災から2日目の朝、我が家の2階から撮った光景です。
残されたのはヘドロと大量の魚(冷凍加工場のもの)、それに瓦礫や押しつぶされた車の山でした。
この中には大量の魚が。家の中だけでも千匹くらいいたかもしれません。
お金も全部こんなになっていました。
当店は幸い建物を流されなかったため、すぐに室内からの泥出し作業に勤しむ日々が始まったわけですが、ご覧のとおり、一足入れるのも大変なほどの荒らされようでした。
すべてのライフラインが寸断されている中での作業は、寒さも手伝って中々はかどらず、約1か月を要しました。
この辺のヘドロはそれは異臭が漂うひどいもので、昔の加工工場の置き土産とでも言いましょうか。
排水の垂れ流しが沈んで層になったもののようです。そこに冷凍の魚の山が重なり、日に日に腐っていくのです。
……海も臭かったんだな、だから吐き出したかったのかな、などとぼんやり思いながら、ひたすらスコップを動かし、暗くなったらさっさとご飯を食べ、すみやかに布団に入る、そんな毎日でした。
それでも1週間もすると三々五々お手伝いが増えてきて、スタッフはもちろん息子の友達が何人も来てくれ本当に助かりました。
昼食は我が家で炊き出しをし、みんなで頂くのですが、このひと時は本当に楽しい時間でした。
とても避難食とは思えないようなメニューでしょう? 冷蔵庫の中ってたくさん入っているものですね。
電気がない分、お鍋でご飯を炊く技も完璧にマスターしましたよ。
ちなみに真ん中で笑っている子は家をすっかり流されてしまった子で、その隣でおどけているのがすっぴんのスタッフ大島、彼女も避難所から通ってきてくれていました。
その子は『やることがない』と息子の部屋に泊まり込んで手伝ってくれ家族が増えたようで、これもまたごはんの作り甲斐もあって嬉しかったな……。
布団の中で、いつになったらお風呂に入れるかな……、当分無理だろうけど、それでもいつかな……、などとふわふわの湯気を思い浮かべながら眠りにつくのです。何度も何度も余震に起こされ、それでも明るくなるまで眠るのです。
人間、こんなに何も考えずエネルギーも使わず暮らせるもんなんだな…、とも思いました。
お風呂だって何も毎日入る必要なんてないし、電気なんて時々楽しむために消すのもいいし、お水はずいぶん無駄に使っていたんだな……、って。
体の節という節が軋み、痛くない日はありませんでしたし、今でも指の第一関節は腫れていて、手をぎゅっと握ることができません。
とにかく早く泥を掻き出さなければ、という思いだけだったように思います。
どうやって毎日を過ごしたのか、なんだかこれくらいしか思い浮かばびません。
ですが、ひとつだけとっても不思議なことがありました。
それは、朝起きた時だけ涙がでる、ということでした。
朝起きてカーテンを開けると外は瓦礫の山、時には白い雪のベールをまとってはいるものの惨憺たる有様です。これがなぜか、朝だけ辛いのです。
どうして夜、布団の中では悲しくないんだろう…、と自分でも不思議でした。
なぜ朝だけ悲しくなるのか、それは、朝の神々しいお日様が瓦礫の風景にあまりに不釣り合いだからだったのです。
それがわかってからは安心して泣きました。ひと泣きしてから1日を始めていました。どこか、途方に暮れていたのでしょうね。
きっと泣くことで自然とバランスが保てていたのでしょう。
あんな日々から早3か月が過ぎ、それは外科手術の時のように加速度を増して日に日によくなって、今では物さえ片付いてしまえば、お店の中は震災前とあまり何も変わらないと言えるところまで回復しました。
ネットショップより一足先に再開した実店舗には、お客様が毎日汚れた着物をお持ちになります。
ひどいものもありますが、桐などの上質の箪笥に入っていた物は濡れてはいても、状態のいいものが本当に多いです。
基本的には、当店で塩水と泥を落とすための水洗いをした後よく乾燥させて京都に送るのですが、からからに乾かしてあげると着物が喜んでいるのがわかります。
ひどい汚れと思っていたものが泥を落としてみると意外にきれいだったりするととっても嬉しいです。
そしてここからが本題です!
そういうお客様たちがいかにがっかりしているかというと実はそうでもないのです。たとえ泥だらけでも、自分が避難所にいてさえ、せめて着物が見つかってよかった、助かってよかった!と喜んでいらっしゃるのです。
中には、『袖も通さないで泥だらけにしちゃってバカみたい!これからはどんどん着て歩くっちゃ!』とか、『あんたんとこで被災した着物売らないの?売るときは教えてね~。拾えなかった分買わないと!せめて一通りくらい持っていたいっちゃ。あはは…』とか
みんな人知れず泣いているはずです。ものすごく傷つき、途方に暮れ、絶望もしていることでしょう。
でもこれは、けっしてやせ我慢とは言いたくないです。
これをプラス思考と呼ばずしてなんと呼びましょう。
悲惨な話も山ほどですが、感動的なお話もたくさんあって、私はつくづく
巡り合せていただいているんだな…と、感じています。
ただこれはあくまで私が大規模半壊という恵まれた状況にあるから言えることかもしれません。
もし私が家族も家も仕事も車も無くなった、という時でもこんなふうに受け止められるかは正直わかりません…
ただ言えることは、すべての事実を受け入れる、ところから始まるということでしょうか……。
さてさて、お店の方は再開してすぐから津波で汚れた着物が持ち込まれるようになり、なんにも売る商品がなくなったお店にもお客様が出入りして下さるようになりました。
ネットショップはネット環境が整うまでに2ヶ月以上かかりましたが、たまりにたまったメールには再開を待っているという応援メールがたくさん入っていて、有り難すぎて涙無くしては読めないものばかりでした。
前のめりの私は『よっしゃ!明日から開ける…

ようこそ先輩!
2009年10月25日
伊勢丹に私を訪ねてきてくださった方がいた。
なんと高校の先輩!と、言っても私は面識のない先輩。
気仙沼からのメールで『伊勢丹行って、たかはしさ…

ちょっと前のお客様♪
2009年6月3日

きれいなお嬢様方でしょう?
彼女たちは従姉妹同士なのです。この日(……ってもう1ヶ月も前なのですが^^;)は、おばあちゃまに作っていただいた着物を着て記念撮影♥️をしたというので、わざわざお店に寄って見せてくださいました!!
コーディネートはお知り合いの美容室だそうです(^^)
向かって左側は実はプロのモデルさん…