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令和4年10月

きものと言えば、茶道が思い浮かびます。
昨今はきものブームから、お茶を習う方が増えている気がします。
で、私もお茶をしています。あろうことか、教えています。こんないい加減な私にお茶を習ってくれている生徒さんに感謝しかありません~、本当です、です。
だいたい、若い頃は大嫌いでした。歩き方、振舞い方、畳の目の三目に置けとか、いや、そこは二目だとか、そんなこといいじゃん!ってずっと思いながら習っていました。しかも教わるのは母ですから、もう反発しかありません(笑)。何で辞めなかったんだろうと今でも不思議でなりません。いやよいやよも好きのうち、あの言葉が浮かびます。大嫌い!って思うほど、思いをかけていることになるんですよね~。

と言いつつ、実ははっきりわかる辞めなかった理由が二つあります。
一つ目は、茶室の空間がとても居心地よかったことです。炭の香り、はぜる音、松風に例えられる湯の沸く音、そして練香の香りです。八畳間という空間が、はっきり外の世界から切り取られるのです。お作法は嫌いでも、その中に身を置くことがとても好きでした。空間は超絶好きだったのです。
そして二つ目はある日の茶会での出来事です。私は客として座していましたが、全ての思いと空間が一体となったと感じる瞬間があったのです。濃茶を立てているその点前、お湯の沸き方、音、香りすべてが「整いました!」ってことだったのだと思います。もてなす側のあり方とそれに酔いしれるように座している客側とが一体となった感じです。その時のお茶の美味しさと言ったら!人生の中であの時のお茶を超える味には出会っていません。お茶自体は何度も飲んだことのあるものでしたが、全てが整うとあんなにも変わるんだってことを、身をもって知った瞬間でした。
今でも、その瞬間に再び出会いたくて、お茶をやっています。一度知ったらやめられない蜜の味、ってところですかね。

でも、私のそれは、積み重ねた日々の精進あってのことだということは言うまでもありません。畳の目にこだわり、道具の置き方、袱紗の畳み方、柄杓や茶杓を持つ角度も教わったものに従い、守、破、離を目指す、ってことなのでしょう。
パッと簡単に見えない、パッとわからないからいいのだと、今は言えます。年月をかけ、じっくりと発酵させていくような自分の中の宇宙、見えたら震えるほど楽しいですよ。出会えるかどうかなんて考えてはいけません。私は偶然出会えましたが、きっとそれは楽しんでいたら、もっと早く訪れたと思います。楽しんで、何でも取り組んでみてください。